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登山家人生は地元神戸で2歳のときに始まった!

Contents

  1. 子どもも登山をする文化が根付いている神戸
  2. 中学・高校・大学と青春時代は登山とともにあった
  3. 駆け出しの登山家の僕を支えてくれた恩人とインソール
  4. 20代、人生最初で最後の大けがをしたメルー峰
  5. クライマー&山岳ガイドの2足のわらじを履いた30代

 

1.子どもも登山をする文化が根付いている神戸

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登山好きの両親に連れられて、2歳で登山デビューした花谷氏(先頭の赤い洋服)。写真/本人提供

 

神戸が生んだ登山家、花谷泰広氏。登山デビューはなんと2歳というから驚く。登山好きの両親や祖父に連れられて行っていた実家のすぐ裏の六甲山が子ども時代の遊び場だ。こうした子ども時代の経験が今の花谷氏の基礎となっているのは言うまでもない。

 

花谷氏「もの心ついたときには山に登っていたんですが、自主的に登ったのは小学校5年生のときかな。新聞で神戸市少年団登山教室の案内を見つけて自分で応募しました。その教室では登山だけでなく、飯盒炊爨やロープワークなんかもあって1年に20回くらいは活動していましたよ。ほかの学校の子たちと一緒に活動しますが、みんな友達と来ていて1人で参加した変わり者は僕だけでした(笑)」

 

友達と一緒でなくても、気にもしなかった花谷少年。ここで大人になっても付き合いが続いた友達との出会いがあった。

 

花谷氏「1人でいた僕のところに来てくれたのは、この登山教室を仕切っていた先生でした。“1人か?”と聞かれて“はい”と答えると、“じゃあ、僕が君の最初の友達だ”と言ってくれたのです。1人でも平気とは思っていましたが、大人からのそのひと言ですごく安心できたのを今でも覚えています。その先生とはそれ以来、先生が亡くなるまで付き合いが続きました」

 

こうして花谷氏はどんどん登山にのめり込んでいった。小学生時代は同級生がゲームなどで遊ぶのと同じ感覚で、六甲山を駆け上がっていたのだ。

 

花谷氏「小学6年生のときには六甲全山縦走をしていましたよ。12時間くらいかかりましたけどね。僕の遊び場だったので、すごく大変だったというのはなく、遊びの一環でした。それ以来、毎年六甲全山縦走はしています」

 

六甲山が彼の原点であることは言うまでもない。日常の何気ない会話のように話す花谷氏だが六甲全山縦走は全長50km弱。ほかの小学生が誰でも踏破できるのかといったらとんでもない。おそらくできない子どもが多いだろう。

 

花谷氏「このときから本当に山ばっかり登っていましたからその積み重ねは大きい。テクニックは年齢や経験を重ねればある程度はつく。でもこうした子ども時代からの下地づくりはかけがいのないもので、登山家である自分の基礎になっているんですよね」

 

2. 中学・高校・大学と青春時代は登山とともにあった

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高校2年生のときの花谷氏(右)。山岳部に所属していたときに比良山に登った。
このころのハードなトレーニングがあったからこそ、世界に名を馳せる登山家になれた。写真/本人提供

 

小学生時代に登山教室に入ったのをきっかけに、登山三昧の人生がスタートする。しかも年齢を重ねるごとに、山との距離はますます近く、そして濃度も高まっていった。

 

花谷氏「中学では研修生という立場で、神戸市少年団登山教室に参加していましたね。学校の部活は陸上部。しかも長距離でも短距離でも、どの競技をしてもそこそこ速くてね。結構運動神経、いいですよ」

 

そういうことを言っても嫌味にまったく聞こえないのは花谷氏の親しみやすいキャラターと、誰もが認める登山における実績のおかげだろう。花谷氏の身のこなしを見ていると、❝運動神経がいい、そりゃそうだろう❞と誰もが納得する。

 

花谷氏「高校は山岳部の強豪校へ行きたくて神戸高校を選びました。実は中学時代の成績ではとてもじゃない、行けない進学校だったんですけどね。あのときは猛烈に勉強しました(笑)。それで入った山岳部では、学校の裏山を来る日も来る日も、15~25㎏の荷物を背負ってボッカをしたり走ったりしていました。年間200日くらいですかね。小中学時代に続いて、高校時代でこれだけ山登りに膨大な時間をかけられたことは、何にも代えがたい経験だったと思います」

 

ちなみに登山はインター杯の競技になっていてテントを立てる、天気図を書く、歩行技術などさまざまな科目があり採点形式で競う。それにおいて強豪校が決まるのだとか。強豪校で磨いた足腰は大学時代にさらに磨きがかかる。

 

花谷氏「大学も山岳部の強い信州大学を選びました。でも高校までとは活動内容は全然違います。雪山も行く、クライミングもする。高校生まではハイキングを少しハードにしたものだとすると、大学の山岳部での活動は、❝本物の❞登山でしたね。しかも大学の山岳部は1年に5回の合宿の強制参加以外、合同練習はありません。自分でトレーニングを考え、自分で山に登って合宿に備える。合宿に耐えられなければ脱落する。結局20人いた部員も最後は数人になってしまうんですよね。そこで残ったやつらは性格も技術も突き抜けたやつばかり。クライミングがめちゃくちゃうまかったり、尋常じゃないスタミナがあったり……」

 

かけがいのない仲間と出会えたことも、花谷氏にとっては大きな財産であろう。そして大学時代に、念願の海外遠征も果たす。山岳部のOBの遠征の計画が立ち上がり、手を挙げ、「行けるなら連れて行ってください」と参加。

 

花谷氏「初めての海外遠征は標高7035mのネパール・ヒマラヤのラトナチュリでした。初の海外でもあり、まず拠点となるカトマンズに着いたら体調を崩し、パーティーから遅れること1週間、ようやく山に登り始めました。出だしからばたばたでしたよ。でも登り始めてすぐに現地の食事や言葉にみるみる順応しましたね」

 

こうしてすぐに環境に順応できるところも登山家としては大切な才能なのであろう。

 

3. 駆け出しの登山家の僕を支えてくれた恩人とインソール

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ハイキング、軽登山、冬山登山などスタイルによって装備は変わるけれども、どんな山でも必ず使うのがノースウェスト・ポディアトリック・ラボラトリー社(NWPL社)のファンクショナルオーソティクス(足の動きを最適化する医療用足底挿板)であるNorthwest Superglass®

 

2年の休学を経て2001年、24歳で大学を卒業。就職先は”山”、富士山の登山ガイドをしながら、冬には富士山観測所の協力をする。そしてお金をためて1年に1~2回、海外の山に登りに行くという生活をしていたのが20代の頃だ。

 

花谷氏「富士登山初心者を40人束ねる登山ガイドをしていましたね。1年に25~30回は富士山に登っていました。この仕事は、案外、性に合っていたんですよ。集団を統率することが楽しくてね」

 

このころ、花谷氏は登山とは違うチャレンジもしていた。当時では珍しくホームぺージを作り、写真と文章で自分の登山活動の情報を発信していたのだそう。

 

花谷氏「自分なりに工夫してできるだけかっこよく見せるように、試行錯誤していましたね。このときの経験は30代になって登山ガイドをするようになってとても役に立ちました」

 

根っからの山好きで、山一筋だと思いきや、時代を先取りする資質もある。まだSNSもなかった時代に、自分はどんな登山家なのか、世界にはどんな山があるのかの情報を山好きの人たちに届けていたのだ。時を同じくして出会ったのが当社インパクトトレーディングの創始者であり前社長、横澤隆男氏だ。知人のガイドさんを通して知り合った2人は現在に至るまで付き合いが続いている。

 

花谷氏「インパクトトレーディングが日本における輸入総代理店として扱っている、Superfeet®を提供してくださったのです。今思えば僕の人生初のスポンサー。大学を卒業して何者でもなかった自分に、サポートしてくださったのは本当に嬉しかったですね。このとき、教えてもらったのが、靴選びの重要性でした。無意識に自分の足のサイズより大きなシューズを履いていた僕に、ベストなサイズの選び方やシューズの前足部の曲がるポイントや踵の硬さが重要だということを教えてくださったのです。そうしたシューズではないと、インソールを入れても足の機能を適正にはできないと」

 

自分の中では当たり前のようにできていると思っていたシューズ選びの常識が崩れただろう。そしてその後、30代、もっと過酷な登山人生を重ねる花谷氏を気にかけ、より強いサポート力で足の動きを最適化することを目的に開発された医療用足底挿板であるファンクショナルオーソティクスのNorthwest Superglass®と引き合わせてくれたのもこの横澤氏と、現社長の杉本大助氏だ。なお、Superfeet®はNorthwest Superglass®を開発したノースウェスト・ポディアトリック・ラボラトリー社(NWPL社)がスポーツなどを中心とした普及版のインソールを製造販売するために設立した兄弟ブランドであるというのも何かの縁を感じる。

 

4. 20代、人生最初で最後の大けがをしたメルー峰

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ヒマラヤで最も難しい山のひとつ言われるメルー峰に挑戦した際に足首を負傷。
歩けなかったため、仲間にロープをつないでもらって四つ這いで6000mから下山するのが写真下の花谷氏。写真/本人提供

 

富士登山のガイドでためたお金で2004年、28歳のときに挑んだ標高6250mのインドのメルー峰。鮫のヒレのような形をした岩山で、通称シャークスフィンと呼ばれている。人生で最初で、おそらく最後の大けがに見舞われた。

 

花谷氏「テントを吊るしたりしながら登攀(とうはん)していたのですが、その最中に落ちてしまったんです。幸いにもロープを付けていたので、命は無事でしたが……。4,5m落ちて、岩にぶつかったときに、打ちどころが悪くて足首の靭帯を断裂してしまいました。とても歩ける状態ではありませんでした」

 

当時3人で組んでいたパーティはあえなく撤退。とはいえ、激しく岩にぶつけた足首の痛みは尋常ではなかったのは言うまでもない。冬山で履く硬い登山靴であっても、歩ける状態ではなかったという。しかもそこは6000m地点。

 

花谷氏「這うようにして自力で下山をしました。足が使えないので、動物のように四つ這いになって。でも手の平を地面につくと、手首がもたない。そこでこぶしにタオルを巻いて手をつきながらようやく下山しました」

 

その後1年間のリハビリ生活が始まる。それでもなかなか良くならず、一大決心をして手術に臨んだ。これは2006年に再び同じ山への挑戦を決めていたからだ。

 

花谷氏「手術後に医師には❝靭帯はもうつながったからケガは治った、あとは気持ちだけ❞と言われたものの、ハードなトレーニングをすれば足首がパンパンに腫れ上がる日もありました。手術後4,5年は痛みや腫れることがありましたね」

 

これだけのケガをして、再び同じ山を目指すとは! そこに恐怖心はないのかという問いに、❝全くないね❞とあっさりひと言。

 

花谷氏「鈍感なんですよ。前のケガのことなんて全然気にならないから怖くはなかったです。とにかくこの山にケリをつけたかった、登頂という結果がほしかった。ただその一心でした。登山は結果=山頂に立つことだけれど、どのルートを選んだか、その過程が難しいほどやりがいもあるし、とくに前回のように岩から登ることに価値がある。しかし前回断念したルートではないルートでの登頂でしたからね。その部分は相当悔しい思いはありました」

 

5. クライマー&山岳ガイドの2足のわらじを履いた30代

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大学時代にトレーニングをしていた穂高や槍ヶ岳、八ヶ岳エリアで個人ガイドをしていた30代。写真左が花谷氏。写真/本人提供

 

メルー峰へ再挑戦を終えて日本に戻ると、山岳ガイドの資格をとり、富士登山のツアーガイドから、穂高や槍ヶ岳、八ヶ岳エリアでの個人ガイドへとフィールドを移した30代。登山ガイドとして冬山もガイドする。こうした活動を続けながらも、1年に1,2度の海外遠征も継続していた。

 

花谷氏「このころ、20代で作ったホームぺージのノウハウを生かして広告宣伝費をかけずに人を集める仕組みを考えるのが楽しくてね。どうしたらホームぺージに目を止めてもらえるのか、ガイドに参加してみたくなるのかなどを工夫していたのでホームぺージ経由で登山ガイドを必要とするお客様は結構集まっていましたね」

 

こうしてお金をかけずに人を集める仕組みづくりの才能は、実は現在の彼の活動に相当生きている。当時は当たり前ではなかったインターネットで情報を発信しながらも、年間200日以上も、山で過ごしたのが30代。

 

花谷氏「重い荷物を背負って、長い距離を歩くわけですから、体への負担も多少はあったと思います。だけど僕の場合は小学生のときからずっと山に登り続け、膨大な時間を積み上げてきた自負があります。登山の技術は後からいくらでもつけることができますが、この積み上げは僕の歩みそのもの。下積みがあるから体力や体をうまくさばくことには自信があって、年間200日も山に登っていても、ケガもしない、さほど疲れない」

 

さらりとそう語る花谷氏の身のこなしは見事だ。それを証明してくれたのは信州大学時代の後輩で、プロマウンテンアスリートとしてスキーとトレイルランニングで活躍する山本健一氏、通称ヤマケンさんだ。実は2人は登山とトレランを融合した「登山トレランイベント」を企画している。この企画をきっかけに、一緒に山を登る機会があったという。登山好きな人、トレラン好きな人から見ればなんとも豪華な2ショット!

 

花谷氏「世界のトレランレースで活躍するヤマケンが言ってくれたんですよね。❝花谷さんの山の下り、まるで水が流れるような体の動きですね❞と。自分ではそんな意識はまったくない。彼が言うには、なんの滞りもなくなめらかに、力まずスピーディーに下っているらしい。これはまさに自分が子どもの頃からの積み上げで身についた体のさばき方なんですよね」

 

2歳にして登山デビュー、小学生で六甲全山縦走を成し遂げ、中学・高校・大学は山岳部の活動に明け暮れた。そして山への就職。山と真摯に向き合い、登山に時間と体力を費やしてきた自負と自信、何にも動じないいい意味での鈍感力は登山家として成し遂げるための何にも代えがたい資質なのかもしれない。

 

撮影/下山展弘 取材・文/峯澤美絵

 

お話を伺いした方

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花谷泰広(はなたにやすひろ)

1976年、兵庫県神戸市生まれ。子どもの頃に登山に目覚め、高校・大学と山岳部に所属。96年、20歳でネパール・ヒマラヤのラトナチュリ峰(7035m)を初登頂して以来、頻繁にヒマラヤなどの海外登山を実践。2012年のキャシャール峰(6770m)南ピラー初登攀、13年には登山界のアカデミー賞と言われる第21回ピオレドール賞、第8回ピオレドール・アジア賞を受賞した。15年からは若手登山家養成プロジェクト「ヒマラヤキャンプ」を開始。現在は山梨県北杜市をベースに、甲斐駒ヶ岳の七丈小屋の運営、甲斐駒ヶ岳のふもとにあるアグリーブルむかわ及び駒ケ岳スキレットの運営などを行いながら、JR小淵沢駅から八ヶ岳と南アルプス甲斐駒ヶ岳などの登山口を結ぶシェア型登山タクシー「MOUNTAIN TAXI(マウンテン・タクシー)」の実現に尽力するなど、登山文化の継承と発展のために活動している。

 

ご利用頂いている医療用足底挿板のファンクショナルオーソティックス® 

 

Northwest Superglass footer

Northwest Superglass®

(ノースウェスト スーパーグラス)

主な特徴

  • Northwest Podiatric Laboratory社(以下、NWPL社)の最高峰フラッグシップモデルの、医療用足底挿板であるファンクショナルオーソティクス®です。
  • ファンクショナルとは、「足の動きを最適化する」ということを意味しており、ひとりひとりの足の骨配列や形状を考慮して、足の適切な動きをサポートすることを目的としています。

 

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